March 16,2017

『舊唐書』吐蕃伝が記す唐の使節団と対面した時のソンツェン・ガンポについて

貞觀十五年、太宗以文成公主妻之、令禮部尚書、江夏郡王道宗主婚、持節送公主於吐蕃。弄讚率其部兵次柏海、親迎於河源。見道宗,執子壻之禮甚恭。既而歎大國服飾禮儀之美、俯仰有愧沮之色。及與公主歸國、謂所親曰「我父祖未有通婚上國者、今我得尚大唐公主、為幸實多。當為公主築一城、以誇示後代。」遂築城邑、立棟宇以居處焉。公主惡其人赭面、弄讚令國中權且罷之、自亦釋氈裘、襲紈綺,漸慕華風。仍遣酋豪子弟、請入國學以習詩、書。又請中國識文之人典其表疏。
(『舊唐書』 列伝第百四十六 吐蕃上)

(訳)貞観十五年、太宗は〔吐蕃に〕文成公主を妻(めあ)わせた。
礼部尚書の江夏郡王〔李〕道宗に婚姻のことを司らせ、節を持たせて公主を吐蕃まで送迎させた。弄讚(ソンツェン・ガンポ王)は部下を率いて柏海に駐屯し、河源まで親迎に出た。道宗を見ると、非常に恭しく婿の礼をとった。
〔ソ王は〕大国の服飾や礼儀の美しさに感嘆し、俯いたり天を仰いだりして、恥じ入った様子を見せていた。公主と共に帰国してから、親しい人物へ言った。
「私の祖先で上國(中華)と通婚したものは、未だかつていなかった。今私が大唐の公主を得たのは、幸多いことにしなければならない。公主のために一城を築き、後世にこれを誇示しようではないか。」
ついに城邑を築き、家を立て、公主をここに住まわせた。公主が国人が赭面(赤土を顔に塗る風習)するのを嫌がったので、弄讚は国中に命じて、仮にこの風習をやめさせた。
また毛皮やフェルトでできた装束を脱ぎ、薄絹や綾絹の服を着て、次第に中華の文化を慕うようになった。酋長や豪族の子弟を遣わせて国学に入学させ、『詩経』『書経』を習わせることを願い、中国に奉る文章を司らせることを請願した。
(参考:『騎馬民族史-正史北狄伝』3 羽田明・佐藤長等/訳註、東洋文庫 1973)

中国の服飾礼儀の美しさを見て愧じるソンツェン・ガンポは面白いしかわいい
あと示威行為として公主のために一城築いた政治的な行動力が好きだな
公主が赭面嫌がったら国中で禁止にしたとか、衣服や織物を華風にしたとか、有力者の子弟を唐に入国させて詩や書を習わせたとか、積極的に漢の文化や制度を吸収しようとする革新的な施政者って感じだ

松赞干布 – 维基百科,自由的百科全书
しかし生没年が史料によってここまでバラバラに書かれている人もそういないと思う
推定生年が557年だったり630年だったり70年のズレがあるのもおかしいけど、82歳まで生きた説と36歳で死んだ説があるのもおかしい
いちおう矢崎正見氏が「ソンツェンガムポ王の年代推定に關する一考察」の中で諸説の総括として569年-650年説を採用されていたので私もその説を支持していますが、歴史創作では史実を全無視して好青年に描いています
(ちなみに文成公主が李道宗の娘という説は採用していません、李道宗の娘を和蕃公主に立てる李世民が解釈違いなので…)