March 14,2017 唐太宗李世民は王羲之の真筆を全て埋葬したか?

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李世民と《蘭亭序》についてのメモ▼


李世民と《蘭亭序》について前から気になっていること

①李世民はいつどのようにして《蘭亭序》を入手したのか?
②李世民が自分のお墓に埋葬したのは《蘭亭序》だけなのか?王羲之の真筆すべてなのか?

このふたつ。

①について
李世民が《蘭亭序》を入手した経緯については、いわゆる「賺蘭亭」の故事が有名です。
「賺蘭亭」とは、帝位に就いた李世民が《蘭亭序》を欲しすぎるあまり人を使って《蘭亭序》を騙し取り、最終的に元の持ち主が亡くなってしまうという李世民関連のエピソードのなかでもエグみの強い話。
しかし李世民が《蘭亭序》を入手した時期や経緯は史料によって異なり、この「賺蘭亭」はあくまで複数の説話のうちの一つの説にすぎません。
「賺蘭亭」が一般に広まっているのは、この話が著名な書論『法書要録』に収録されているエピソードであり一般書籍でもよく目にすること、また話の内容もネタ度が高く面白いからだと思うのですが、複数ある説のうちこの話が真実のように語られるのにはやや違和感を覚えます。

②について
ネット上では「李世民は王羲之の真筆をすべて埋葬させた(ので王羲之の真筆がこの世から葬り去られた)」という説を度々見かけます。
しかし複数の文献を調べても、李世民が崩御後に埋葬を望んだのは《蘭亭序》のみであり、王羲之の真筆すべての埋葬を望んだという史料は管見の限り目にしたことがありません。
『舊五代史』温韜伝によれば温韜(五代十国の梁の時代に朱全忠に仕えた賊上がりの武将)は昭陵の正殿の外にある箱の中から王羲之や鍾繇の書をはじめ多数の書を盗み出したそうですが、この書に関しても李世民の意向によって収められたものかは分かりません。また李世民の遺志によって埋葬されたものだとしても、後継者である李治や官僚の決裁があった上で副葬品として収められたものでしょう。
考えるに「李世民は王羲之の真筆をすべて埋葬させた」というエピソードは、「李世民が王羲之の真筆を大量に収集した」という話と、「李世民が王羲之の《蘭亭序》を埋葬させた」という話と、「(唐末の散逸などにより)王羲之の真筆は散逸してしまい、現存しない」という話がキメラになり、誇張されたエピソードを形成しているのではないかと思います。

以下に李世民と《蘭亭序》入手・埋葬にまつわるエピソードをピックアップし、
①李世民による《蘭亭序》入手経路について、②李世民が埋葬を望んだ書について、の二つが史料によってどのような差異があるのかを整理してみました


唐 劉餗撰『隋唐嘉話』
成立時期:玄宗代。李世民の死後百年前後
①《蘭亭序》の入手経路:武徳四年 / 蕭翼による
②李世民が殉葬を望んだもの:《蘭亭序》のみ

王右軍《蘭亭序》、梁亂出在外、陳天嘉中為僧永所得。至太建中、獻之宣帝。隋平陳日、或以獻晉王、王不之寶。後僧果從帝借搨。及登極,竟未從索。果師死後、弟子僧辯得之。太宗為秦王日、見搨本驚喜、乃貴價市大王書《蘭亭》、終不至焉。及知在辯師處、使蕭翊就越州求得之、以武德四年入秦府。貞觀十年、乃搨十本以賜近臣。帝崩,中書令褚遂良奏「《蘭亭》先帝所重、不可留。」遂秘於昭陵。

王右軍(王羲之)の《蘭亭序》は梁が乱れたために流出した。陳の永嘉中に僧永がこれを得て、大建中に宣帝に献上された。隋が陳を平定するとある人が晋王(楊広)に献上したが、王は宝としなかった。僧果がこれを借りて搨本を作った。王が登極したのちも《蘭亭序》が探されることはなかった。果師の死後に弟子の僧辯がこれを得た。
太宗(李世民)が秦王であったとき搨本を見て、驚喜して高値で《蘭亭序》を求めたが、終に至らなかった。辯師のところに《蘭亭序》があると知り、蕭翼を越州に行かせてこれを得、武徳四年を以て秦王府に入った。貞観十年、搨本十本が近臣に下賜された。
帝が崩御すると、中書令褚遂良が「《蘭亭序》は先帝の重んじる所であり、留めてはいけない」と上奏し、昭陵に埋葬されることとなった。


唐 張彦遠撰『法書要録』巻第三より何延之『蘭亭記』
成立時期:晩唐。李世民の死後二百年前後
①《蘭亭序》の入手経路:貞観中 / 蕭翼による(いわゆる「賺蘭亭」)
②李世民が殉葬を望んだもの:《蘭亭序》のみ

長いので抄訳だけ↓

《蘭亭序》は、晋の右将軍、会稽内史、瑯琊の王羲之、字は逸少の書する詩序である。右軍は蝉聯たる美冑にして、蕭散たる名賢であった。雅より山水を好み、尤も草隷を善くした。
(略)
貞観代、李世民は政務の暇を以て志し鋭く書をたしなみ、右軍の真草の書帖を臨写した。購募してつぶさに手を尽くしたが、ただ《蘭亭序》だけが得られずにいた。尋ね求めていると、《蘭亭序》が辯才のところにあると知った。勅令によって辯才の道場を供養し、恩賚は非常に厚かった。数日後、辯才は《蘭亭序》について尋ねられた。辯才は「先師に侍奉していたときに目にする機会がありました。禅師が没し、戦乱を経て喪失し、今は所在を知りません。」と返した。辯才は越中に返され、さらに推究されたが、《蘭亭序》は辯才の手元を離れなかった。太宗はまた勅して辯才を呼び、重ねて《蘭亭序》の所在を問うた。三度繰り返したが、辯才の意思は強く、手離そうとしなかった。
太宗は侍臣に行った。「右軍の書は、朕がひとえに宝とするものである。とりわけ逸少の書跡において、《蘭亭序》に匹敵するものはない。この書を見ることを求め寝ても覚めても労している。この僧は耆年で、《蘭亭序》を用いるところがないではないか。もし一智略の士を得て、以て謀計立てれば、これを取ることができるだろう。」と。
尚書右僕射(注・左僕射の誤り)の房玄齢が奏して言った。「臣が聞くところによれば、観察御史(地方を巡察して行政を監視した官)の蕭翼は、梁の元帝の曾孫だそうです。今の貫は魏州の華縣であり、蕭翼は才芸をたのみ権謀多き人間です。この使いに当てれば、必ず《蘭亭序》を獲ってくるでしょう。」
太宗は詔して蕭翼に謁見した。蕭翼は「もし公使として赴けば《蘭亭序》を得ることはできないでしょう。どうか私を微服して行かせてください。すべからく二王の雑帖、三数通を得てきましょう」と言った。太宗は納得し、彼に〔微服用の服を〕給した。
翼遂は冠を微服に改めて潭に至り、商人の船に乗り越州に赴いた。また黄衫(注:当時は黄衫の使用に寛容であり、庶民が黄衫を着用することも多かった)を身につけ、落ちぶれた山東の書生の風貌を装った。日暮れて寺に入り、廊を巡り壁画を見た。そして辯才の院を過ぎ、門前に止まった。辯才は遠くから蕭翼を見、「何処の檀越(施主)であるか」と問うた。蕭翼は辯才の前まで進み、礼拝して言った。
「弟子は北人であります。わずかな蚕種を持ち来たりて売り、寺を巡って従観しており、幸いにして禅師と遭うことができました」と言った。日が暮れていくなか二人は語り合い、房内に入った。共に囲碁、撫琴、投壺、握槊、文史を談説し、非常に意気投合した。二人は語り合う中で、「白頭新なるが如く、傾蓋旧の若し。今後、形迹無きなり」と言った。辯才は蕭翼を夜宿させ、薬酒、茶果らを設けた。
(略)
蕭翼は辯才に、梁元帝の自ら描いた職貢図を示した。辯才は嗟賞してやまず、蕭翼と翰墨を談論した。蕭翼は言った。「弟子の先門は皆、二王の楷書を習っています。弟子も幼い頃より耽翫しております。今また数帖を持っているのです」。辯才は喜んで「明日また来て、その書を拝見させてくれないだろうか?」と言った。
翌日、蕭翼は辯才を訪ねてその書を出し示した。辯才はそれを熟詳して、「これはこれで良いものだが、佳善ではない。貧道に一つの真跡があるが、これはすこぶる良いものである」と言った。蕭翼が「何の書ですかな?」と尋ねると、辯才は「《蘭亭序》である」と返した。蕭翼は偽って笑いながら言った。「しばしば乱離を経て真跡が残っていましょうか。それは響搨(複製)の偽作でしょう」。辯才は言った。「禅師が生きていた頃常に《蘭亭序》を保ち惜しみ、臨終の際に直接私に託したのだ。どうして偽物を渡したりできようか。明日またここに来て見てみなさい」と。
翌日蕭翼が訪ねると、師自ら屋梁の上の楹内より《蘭亭序》を取り出した。蕭翼はそれを見終えると、わざと瑕をつけ、その傷みを指して「これは響榻の書であります。」と言った。紛競定まらず、辯才はまた梁檻の上に《蘭亭序》を戻した。蕭翼の二王の諸帖にあわせ、机の上に留め置かれた。
辯才は年八十あまりにして、毎日窓の下において臨学すること数遍、老いても非常に《蘭亭序》を愛好していた。これより蕭翼が度々辯才のもとに往還していたので、童弟らもまた蕭翼を猜疑することはなかった。
こののち、辯才が霊汜橋の南、厳遷の家斎に赴いた。蕭翼は密かに房前まで向かい弟子に言った。「翼は帛子を忘れてきてしまった。床の上にあるのだが」。童子は速やかに門を開いた。蕭翼は机の上にある《蘭亭序》と御府の二王の書帖を得た。蕭翼は永安に赴き、駅の駅長である凌愬して告げた。「我は御史である。勅を奉じてここに参った。今、ここには墨勅(天子直筆の勅書)があるぞ。汝は都督の斉善行に報告しなさい。」
斉善行とは竇建徳の妹壻であり、夏国では竇建徳の下で右僕射を務めた人である。隋の黄門侍郎の裴矩の策を用い、国を挙げて唐に帰降した。これによって貴士を失わず、上柱国の金印紱綬を遙授し、真定縣公に封ぜられた。
善行はこれを聞き、馳せ来りて蕭翼に拝謁した。蕭翼は勅旨を宣示し、つぶさに経緯を告げた。善行は使人を走らせ、辯才を召し出した。辯才はなお厳遷の家におり、寺に戻っていなかった。にわかに追呼されたが理由を知らないままだった。斉善行はまた散直を遣わせて、「侍御を見んことを求む」と言った。辯才が来て御史を見るに至った。〔辯才にとっては〕房中の蕭生である。蕭翼は辯才に告げて、「勅を奉じて遣来し《蘭亭序》を取りにきたが、《蘭亭序》はすでに得た。故にあなたをここに呼び、それをお伝えしたのです。」と言った。辯才はその言葉を聞くと絶倒し、しばらくしてようやく目を覚ました。蕭翼は駅を発ち、都に至って奏御した。
太宗は大悦し、房玄齢に蕭翼を推挙した功績として錦綵千段を賞した。また蕭翼を抜擢して員外郎とし五品とした。さらに銀瓶一つ、金楼瓶を一つ、瑪瑙碗一つ、珠、良馬二匹、宝装の鞍轡、荘宅一区を賜った。
太宗は初め老僧(辯才)の秘吝を怒りに思ったが、彼が老齢であることを思い、刑を加えるのには忍びなく、数日後になお賜い物をした。物三千段と穀三千石を越州に勅して支給させた。辯才はこの賜り物を己のためには用いず、三層の宝塔を造った。塔は甚だ精麗にして、今に至るまでなお残っている。
老僧はこのため驚悸して重い病を患い、食事も進まず、ただ粥をすするのみとなった。しばらくして卒した。帝は供奉の搨書人、趙模、韓道政、馮承素、諸葛貞ら四人に命じ、搨本を複数作り、皇太子、諸王、近臣に賜った。
貞観二十三年、李世民は体を病み、玉華宮の含風殿で療養した。臨終の際に高宗(李治)に言った。
「お前に頼んで求めたいものが一つある。お前は誠孝で吾が心に違えたりはしないだろう。お前の意はどうだ?」
高宗は嗚咽して涙を流し、李世民の言葉を聞いた。「私の求めるものは《蘭亭序》だ。我に与えて地下に埋葬してくれ」。
《蘭亭序》は仙駕に従い、玄宮(昭陵)に入った。


北宋 錢易撰『南部新書』巻第四 丁
成立時期:北宋。李世民の死後三百二十〜三百七十年前後
①《蘭亭序》の入手経路:武徳四年 / 欧陽詢による
②李世民が殉葬を望んだもの:《蘭亭序》のみ

《蘭亭序》者、武德四年、歐陽詢就越訪求得之、始入秦王府。麻道嵩奉教拓兩本、一送辯才、一王自收。嵩私拓一本。于時天下草創、秦王雖親總戎、《蘭亭序》不離肘腋。及即位、學之不倦。至貞觀二十三年、褚遂良請入昭陵。後但得其摹本耳。

《蘭亭序》は、武徳四年に欧陽詢が越州に就き、訪ね求めて始めて秦王府に入った。麻道嵩に教を奉じて搨本を二つ作り、一は辯才に送り、一つは王が自ら収めた。麻道嵩は秘かに搨本を一つ作った。時は天下草創の時期で、李世民は自ら戦を統べる立場であったが、《蘭亭序》を離すことはなかった。即位に及んでこれを学び倦まず、貞観二十三年に至り、褚遂良が請願して昭陵に埋葬された。後はただ摸本が残るだけである。


『隋唐嘉話』『法書要録』『南部新書』を比較してわかったこと

①《蘭亭序》を入手する経緯は史料によって異同がある
・『隋唐嘉話』と『南部新書』は武徳四年のこととし、『法書要録』は貞観代のこととする。
・『隋唐嘉話』と『法書要録』は《蘭亭序》を入手した人間を蕭翼とする。『南部新書』は欧陽詢とする。

②李世民が殉葬を望んだものは《蘭亭序》のみ
・これはどの史料においても一致。
・『隋唐嘉話』と『南部新書』は《蘭亭序》の埋葬について、太宗死後に褚遂良の請願があったことを記す。

個人的な見解としては、

『隋唐嘉話』…成立年代の早さからいえばこのなかでも信憑性が高そう。
煬帝が《蘭亭序》に興味なかったというのがリアル
(そういえば虞世南も煬帝政権では書人として活躍してないですね…)
『法書要録』何延之『蘭亭記』…小説じゃん!あと長い。
脚色きつそうなのに、「太宗ははじめ老僧の秘吝に怒ったが…」のくだりが妙にリアル
『南部新書』…「麻道嵩に教を奉じて搨本を二つ作り、一は辯才に送り、一つは王が自ら収めた。麻道嵩は秘かに搨本を一つ作った。時は天下草創の時期で、李世民は自ら戦を統べる立場であったが、《蘭亭序》を離すことはなかった。」
このくだり全部リアル

です。
全部にリアルなところあるからこれは創作だろって切り捨てるのも野暮に思えてきた。
賺蘭亭の故事が必ずしも真実というわけではないことと、李世民は王羲之の真筆を全部お墓に入れるよう遺言したわけではないこと、この二点が主張できればもう些細な差異はどうでもいいし…
(追記:いま読み返すとこのあたり『蘭亭記』を訳した疲れで投げやりになってる)
あと《蘭亭序》埋葬のミソは、李世民の死後に唐代きっての大書家である褚遂良が《蘭亭序》埋葬を李治に請願していることだと思います。
現代の価値観に則れば皇帝の遺志より文化財の保護を優先したくなるけれど、7世紀の価値観ではそうじゃない。
当たり前だけど文化財より皇帝の遺志であったり、「孝」や「忠」の方が重要だったりする。
そういった過去と現代と価値観の違いを理解せず、李世民は《蘭亭序》を殉葬させたんだ!サイテー!って言うのが一番野暮でしょ(強弁)。

ところで冒頭で書いた『新五代史』温韜伝の「温韜は昭陵の正殿の外にある箱の中から王羲之や鍾繇の書をはじめ多数の書を盗み出した」という記述は温韜が昭陵の正殿には盗掘に入っていない、というようにも読めるんですがどうなんでしょうか?
温韜伝において温韜は正殿の回りの廊列に収められていた書を奪っただけで、正殿内部の盗掘を行ったとは書かれていません。温韜の盗掘目録にも《蘭亭序》の名前はないようです。
ひょっとすると「昭陵最固」ゆえに、李世民と《蘭亭序》が寝ているであろう正殿は暴かれなかった可能性もある?
その場合李世民はいまだに《蘭亭序》と眠りについているのでしょうか?