July 24,2017 唐代の和蕃公主について

貞観十五年(641)に吐蕃に降嫁した文成公主とソンツェン・ガンポの話。
歴史創作では基本人物のデザインを年齢差に忠実に設定しようと決めてるんですが、ソンツェンだけはガン無視で若者に描いてます。
史実のソンツェンは文成公主降嫁時72歳くらい(諸説あり)

文成公主の本来の降嫁先はソンツェンの息子のグンソン・グンツェン。ですが降嫁した二年後にグンソンが落馬で亡くなり、その後三年の喪に服し義父であったソンツェンと再婚します。
レビレート婚(寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する習慣)と思われますが、ちゃんと三年喪に従ったところはさすがソンツェン。彼は親唐派なので唐への対応を弁えてます。

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中国から他国に降嫁した公主を和蕃公主と言います。蕃国と和親するという意味から和蕃。
隋唐期は周辺の異民族対策の一環として、少なくない数の皇女・宗女が和蕃公主として蕃国に降嫁しました。

隋〜唐半ばの和蕃公主に共通するのは皇帝の実の娘ではなかったということです。
太宗期の和蕃公主、吐蕃に降嫁した文成公主、吐谷渾に降嫁した弘化公主はいずれも宗室の子。
この名目上公主に封じられた宗女を「仮制公主」といい、対して皇帝の実子で封じられた者を「真制公主」といいます。
隋〜唐半ばまでは隋・唐両国に統一王朝としての権威があり、また和蕃公主の意義が外交的戦略であったため、異国に降嫁する公主はほぼ仮制公主であることが慣例でした。
(この辺りの話は藤野月子『王昭君から文成公主へ―中国古代の国際結婚―』(九州大学出版会 2012)に詳しいです。)
しかし安史の乱を経て唐の権威が失墜すると、蕃国が和蕃公主に求める意義は唐との国際関係の強化ではなく降嫁時の持参金に移行します。真制公主と仮制公主では持参金の額が大きく違ったらしく、ウイグルなどは仮制公主を認めず皇帝の実子である真制公主を求めるようになります。
ちなみに吐蕃はもはや公主を求めすらしないので、これだけでも唐の衰退が端的にわかるらしい。
氣賀澤保規先生は『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』(講談社 2005)において、唐半ばまで仮制公主が降嫁した理由として
「皇帝の実子を降嫁される場合、それに見合うだけの莫大な額の持参金を用意しなければならなかったので渋って実子を出さなかった」
「皇帝が実の子を蕃国に嫁がせるのを人情として嫌がった」
「和蕃公主には結婚する王や可汗の心を掴み、文化や習俗などで相手を感化させる使命があったため、高い資質と容姿を備えた人間が皇族から選抜されたのではないか」というものを挙げられています。
聡明で信心深く、吐蕃に仏教信仰をもたらし人々を感化した文成公主はまさにその一例とみることができるかもしれません。
でも氣賀澤先生、「そのような役目は深閨ぬくぬく育てられた皇帝の娘に負えるものではない」(『絢爛たる世界帝国』)は主観入れすぎでは?

ところで『資治通鑑』巻第百九十六に「吐蕃には赭面(顔を赤土で塗る風習)があったが、文成公主がこれを(野蛮だと?)嫌ったためにソ王は令を下してこれを禁じた、またソ王の猜暴の性は次第に変わっていった」とあるのはエモいと思います。
暴走老人なソ王が最晩年に文成公主に感化されて人間性柔らかくなるなんて小説的ではないですか。
通鑑の記事は「漢人による異民族の教化」という美徳を盛ってる気がしないでもないけど。