人物紹介(隋唐の官僚)

隋唐の皇室・外戚 / 凌煙閣二十四功臣 / 秦王府十八学士 / 隋唐の官僚 / 東突厥第一可汗国・西突厥 / ユーラシア諸国 / 隋末唐初の群雄
♢…玄武門の変に参与した、もしくは参与したと推測される人物


裴寂 / 字:真玄(569–629)

劉文静 / 字:肇仁(568–619)
自雲彭城の人。隋末に太原で李淵と親交を結ぶと李世民を高く評価し、世民の客食になり裴寂を含む三人で李淵の挙兵を謀った。挙兵にあたって突厥に交渉に赴き、精鋭の騎兵と馬二千頭を得た。凄腕のインテリヤクザ。長安平定後は中央の法整備や屈突通・桑顕和、薛仁杲征戦で軍功をあげた。しかし次第に李淵・裴寂と対立するようになり、二人への怨嗟を口にしたことが謀反として告発された。世民や蕭瑀らは文静は無実であると擁護したが、裴寂が李淵に粛清を提言したため武徳二年(西暦619年)に処刑された。世民即位後に名誉が回復された。


封倫 / 字:徳彝(568–627)

裴矩 / 字:弘大(547–627)

宇文士及 / 字:仁人(572?–642) ♢
雍州長安の人。父の宇文述は隋朝の重臣であり、五貴(隋煬帝の腹心)の一人に数えられた。士及は早くから李淵と親しく、楊玄感の乱によって天下が乱れる以前から二人で天下のことについて語りあっていた。兄の宇文化及が反乱を起こすとそれに従ったが、秘かに李淵と連絡を取りあい、化及が竇建徳に破れると唐に帰順した。妹の宇文氏が昭儀となり李淵に寵愛されたため重用を受け、李世民の征討に従軍することを任された。東宮府と天策上将府の両方に属していたが、玄武門の変では世民側として参与している。政軍に精通する世民屈指のお気に入り家臣で、朝から晩まで傍に仕え、休日にも呼び出されていたという。口が巧く世渡り上手な一方、失言やうっかりミスが多い。

陳叔達 / 字:子聡(570年代?–635)

李綱 / 字:文紀(547–631)


温大雅 / 字:彦弘(?–629) ♢

温彦博 / 字:大臨(574–629)


薛萬均 / 字:?(?–641)

薛萬徹 / 字:?(?–653)

李大亮 / 字:?(586–644)


李百薬 / 字:重規(565–648)

褚亮 / 字:希明(560–647)
杭州錢塘の人。曾祖父の湮は梁で御史中丞を務め、祖父の蒙は太子中舍人を務めた。父の玠は陳で秘書監を務め、皆名前が知られた。褚亮は若くして学問を好み、群書に通じ文章をよくした。18歳にして陳の僕射の徐陵に面会して語り合い、才能を見出された。また陳の後主に召されて詩を賦し賞賛された。隋が興ると大業年間に太常博士となったが、楊玄感と友好的であったとして西海郡司戸に左遷された。隋末には薛挙の下で黄門侍郎を務めたが、李世民が薛軍を滅ぼすと深く礼遇され、秦王府の文学館学士に任ぜられた。常に世民の征伐に侍従し、軍中の宴筵にあっては必ず歓賞に預かった。また軍中では諷議によって多くの益をあげた。世民が閻立本に十八学士の画を描かせた際、褚亮は命を受けて賛を制作した。世民が即位すると弘文館学士となり、散騎常侍に任ぜられ、陽翟県男に封ぜられた。晩年に体を病むと常に世民から医薬を賜り、遣いが絶えることがなかった。子の褚遂良はドS諫臣として大成した。

顔師古 / 字:籀(581–645)


王珪 / 字:叔玠(570–639)

戴胄 / 字:玄胤(?–633)

張玄素 / 字:?(?–664)

岑文本 / 字:叔玠(595–645)

劉洎 / 字:思道(?–646)

馬周 / 字:賓王(601–648)

褚遂良 / 字:登善(596–658)

Top